関市・美濃市「きららくらぶ®」| 2013年4月号掲載

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志を刀に映し続けた匠

故尾川兼圀

刃物のまち、関市。
武芸川町の日本刀鍛錬所で、 世界に名を馳せる名刀を作り続けた刀鍛冶がいた。
刀界では人間国宝に次ぐ名誉、「無鑑査」に認定された刀匠、尾川兼圀。
86歳まで現役で槌を振るっていたが、 2012年11月26日、87年の生涯に、幕を閉じた。
兼圀氏の偉業を、息子である 二代目・尾川兼國氏に訊く。

■最年少で陸軍受命刀匠に
時を経て、52歳で再出発
 刀づくりには、大別して20以上の工程がある。一振りを完成させるには、短くても15日、長いと1カ月ほどの時間を要する。<br> 日本刀の材料は、砂鉄から取り出した玉鋼を用いる。それを加熱し、さらに細かく割り、良質なものを取り出して積み、また熱を加える。それを繰り返して、「鍛錬」に入る。<br> 鍛錬とは、熱した鉄を叩いて伸ばす作業を繰り返すこと。美しく、切れ味の鋭い刃を作るために大切な工程だ。叩くたびに散る火花は不純物であり、それをなくすために何度も何度も繰り返される。<br> その後、軟らかい心鉄(しんがね)を硬い皮鉄(かわがね)で包んだら、小槌だけで形を整え、日本刀独特の姿に打ち伸ばしていく。槌のわずかな狂いが刀をねじ曲げたり、肌割(はだわ)れを起こしたりしてしまう。一瞬ですら気を抜けない、体力勝負の職人技だ。 <br> その刀身に、焼刃土(やきばづち)を塗り、刃の部分だけを薄く塗る土取り、そして焼き入れへと工程は進む。これにより刃に生まれる模様が、「刃文(はもん)」だ。流派や時代によって形状が異なるため、この刃文の美しさが鑑賞・鑑定の上で重要視されている。<br> 兼圀氏の作品の特徴とも言えるのが「濤瀾刃(どうらんば)」と呼ばれる刃文。寄せては返す大波を思わせる、ダイナミックな美しさだ。<br> 既製の鉄を使う包丁やカミソリと違い、日本刀は、作業工程の中で刃の質が決まる。できあがりの質や美を想像し、経験と勘を頼りに作り上げていく。材料選びから鍛錬の仕方、刃文の形状まで、作り手によって異なるため、刀鍛冶の個性と腕が、そのまま作品に出る。同じものは一つとして存在しない、日本らしい、最高の芸術品だ。<br> 「父はよく、夢の中でも刀を作っていました」と話すのは、二代目・尾川光敏さん。夢の中で、作刀のヒントを得ることもあったようだ。<br> ある時、「最近、夢を見んようになってきた。もう終わりかもなぁ」とほほ笑むように話すことがあった。その数カ月後の平成24年2月に兼圀氏は体調を崩す。<br> 病状が悪化し、9月に入院。病床でも「そろそろ焼き入れをしないと…」と、ずっと作品のことを気にかけていたという。入院生活も2カ月を過ぎた頃、快方へ向かい、年明けには退院かと話していた矢先の11月26日。<br> 焼き入れ作業を残した刀と、心待ちにしていた式年遷宮には届かず、87年の生涯に、静かに幕を下ろした。

どれだけいい賞を取っても、どんなに美しい作品ができても、「もっと上を、もっといいものを」と日々追求し続ける人だったという、尾川兼圀氏

 大正14年、武芸川町に生まれ、14歳で刀界の門をたたいた少年がいた。尾川邦彦―のちに、兼圀(かねくに)と名乗る。
 18歳の時、千葉県で、全国最年少の陸軍受命刀匠となった(銘圀忠)。第二次世界大戦後、農業や養鶏、洋食器のナイフ研磨などの職に就く。日々の仕事をこなす傍ら、刀剣制作への熱い思いは絶やさず持ち続けていた。
 47歳の時、再び刀工の道を進む決意をする。しかし、受命刀匠の証明書が戦火で焼けてしまい、実績を証明するものは、何一つ残っていなかった。
 日本刀を作るためには、文化庁の認可が必要。それには最低5年間、刀鍛冶に弟子入りしなければならない。兼圀氏はもう一度原点に立ち返り、27代兼元・金子孫六に入門。再び認可を得たのは、52歳の時だった。
 それからの兼圀氏の活躍は、めざましいものであった。平成7年以降、新作名刀展で数々の賞を連続受賞。平成18年には、刀匠界で人間国宝に次ぐ名誉とされる「無鑑査」に認められたのだ。
 今年は、伊勢神宮式年遷宮の年。兼圀氏は、遷宮に合わせて神宮に納める御神刀、三振りを手掛けた。一昨年秋に奉納が済み、遷宮の時を待ちわびていたという。
■確かな目と巧みの技が
美しい日本刀をつくる
 刀づくりには、大別して20以上の工程がある。一振りを完成させるには、短くても15日、長いと1カ月ほどの時間を要する。<br> 日本刀の材料は、砂鉄から取り出した玉鋼を用いる。それを加熱し、さらに細かく割り、良質なものを取り出して積み、また熱を加える。それを繰り返して、「鍛錬」に入る。<br> 鍛錬とは、熱した鉄を叩いて伸ばす作業を繰り返すこと。美しく、切れ味の鋭い刃を作るために大切な工程だ。叩くたびに散る火花は不純物であり、それをなくすために何度も何度も繰り返される。<br> その後、軟らかい心鉄(しんがね)を硬い皮鉄(かわがね)で包んだら、小槌だけで形を整え、日本刀独特の姿に打ち伸ばしていく。槌のわずかな狂いが刀をねじ曲げたり、肌割(はだわ)れを起こしたりしてしまう。一瞬ですら気を抜けない、体力勝負の職人技だ。 <br> その刀身に、焼刃土(やきばづち)を塗り、刃の部分だけを薄く塗る土取り、そして焼き入れへと工程は進む。これにより刃に生まれる模様が、「刃文(はもん)」だ。流派や時代によって形状が異なるため、この刃文の美しさが鑑賞・鑑定の上で重要視されている。<br> 兼圀氏の作品の特徴とも言えるのが「濤瀾刃(どうらんば)」と呼ばれる刃文。寄せては返す大波を思わせる、ダイナミックな美しさだ。<br> 既製の鉄を使う包丁やカミソリと違い、日本刀は、作業工程の中で刃の質が決まる。できあがりの質や美を想像し、経験と勘を頼りに作り上げていく。材料選びから鍛錬の仕方、刃文の形状まで、作り手によって異なるため、刀鍛冶の個性と腕が、そのまま作品に出る。同じものは一つとして存在しない、日本らしい、最高の芸術品だ。<br> 「父はよく、夢の中でも刀を作っていました」と話すのは、二代目・尾川光敏さん。夢の中で、作刀のヒントを得ることもあったようだ。<br> ある時、「最近、夢を見んようになってきた。もう終わりかもなぁ」とほほ笑むように話すことがあった。その数カ月後の平成24年2月に兼圀氏は体調を崩す。<br> 病状が悪化し、9月に入院。病床でも「そろそろ焼き入れをしないと…」と、ずっと作品のことを気にかけていたという。入院生活も2カ月を過ぎた頃、快方へ向かい、年明けには退院かと話していた矢先の11月26日。<br> 焼き入れ作業を残した刀と、心待ちにしていた式年遷宮には届かず、87年の生涯に、静かに幕を下ろした。

尾川親子による、古式鍛錬のようす。刀鍛冶は力仕事。86歳まで現役だった兼圀さんの気力と体力は偉大

 刀づくりには、大別して20以上の工程がある。一振りを完成させるには、短くても15日、長いと1カ月ほどの時間を要する。
 日本刀の材料は、砂鉄から取り出した玉鋼を用いる。それを加熱し、さらに細かく割り、良質なものを取り出して積み、また熱を加える。それを繰り返して、「鍛錬」に入る。
 鍛錬とは、熱した鉄を叩いて伸ばす作業を繰り返すこと。美しく、切れ味の鋭い刃を作るために大切な工程だ。叩くたびに散る火花は不純物であり、それをなくすために何度も何度も繰り返される。
 その後、軟らかい心鉄(しんがね)を硬い皮鉄(かわがね)で包んだら、小槌だけで形を整え、日本刀独特の姿に打ち伸ばしていく。槌のわずかな狂いが刀をねじ曲げたり、肌割(はだわ)れを起こしたりしてしまう。一瞬ですら気を抜けない、体力勝負の職人技だ。
 その刀身に、焼刃土(やきばづち)を塗り、刃の部分だけを薄く塗る土取り、そして焼き入れへと工程は進む。これにより刃に生まれる模様が、「刃文(はもん)」だ。流派や時代によって形状が異なるため、この刃文の美しさが鑑賞・鑑定の上で重要視されている。
 兼圀氏の作品の特徴とも言えるのが「濤瀾刃(どうらんば)」と呼ばれる刃文。寄せては返す大波を思わせる、ダイナミックな美しさだ。
 既製の鉄を使う包丁やカミソリと違い、日本刀は、作業工程の中で刃の質が決まる。できあがりの質や美を想像し、経験と勘を頼りに作り上げていく。材料選びから鍛錬の仕方、刃文の形状まで、作り手によって異なるため、刀鍛冶の個性と腕が、そのまま作品に出る。同じものは一つとして存在しない、日本らしい、最高の芸術品だ。
 「父はよく、夢の中でも刀を作っていました」と話すのは、二代目・尾川光敏さん。夢の中で、作刀のヒントを得ることもあったようだ。
 ある時、「最近、夢を見んようになってきた。もう終わりかもなぁ」とほほ笑むように話すことがあった。その数カ月後の平成24年2月に兼圀氏は体調を崩す。
 病状が悪化し、9月に入院。病床でも「そろそろ焼き入れをしないと…」と、ずっと作品のことを気にかけていたという。入院生活も2カ月を過ぎた頃、快方へ向かい、年明けには退院かと話していた矢先の11月26日。
 焼き入れ作業を残した刀と、心待ちにしていた式年遷宮には届かず、87年の生涯に、静かに幕を下ろした。
■次代へと受け継がれる
兼圀氏の想いと匠の技
 自らを高めつつも、立派に後継者を育てた。次男・光敏さんは、20歳の時に神奈川県で就職。働きながら、いずれは父の跡を継ごうと思い続けていた。25歳の時、「継ぎたい」と話した時は、あっさりと断られてしまったという。ガラス施工の一級技能士を持つ光敏さんに、「今の仕事の方がいいはずだ」と、父親としての判断が下ったのだ。<br> しかし8年後、33歳で退職し、意を決して父のもとに入門する。一般的には20歳前後から修業を積む業界。その中では遅いスタートだったが、光敏さんは驚くほど早いスピードでその才能を開花していった。<br> 二代目となった光敏さんは、「尾川兼國」と名乗る。父の「圀」と子の「國」、違う漢字を用い、両者とも「かねくに」と読む。父の背中を見つめ続けてきた、光敏さんらしい名だ。<br> 平成9年の新作刀展では、特賞の一・二席にあたる賞を尾川親子が独占。平成21年には光敏さんも「無鑑査」認定を受け、二人は日本の刀匠界を語るに欠かせない親子として、全国に名を馳せていった。<br> 「父からは、『どんな事にも手を抜くな』と言われ続けてきました。手を抜けば、それが最後に作品に出てくる、と」。毎日、強い意志を持ち、真剣に刀と向き合った兼圀氏。その志が刀に映り、すばらしい作品を世に残してくれたのだ。<br> 「父がいなかったら、今の私はないですから。父に学べて本当に良かったです。遺志を継ぎ、とにかく今は、手を抜かず、一生懸命やっていきたい。その先に、私なりの刀鍛冶があると思っています」と光敏さん。<br> 多くの人を魅了する、兼圀氏の日本刀。伝統と匠の技が、こうして次代へと受け継がれていく。

濤瀾刃(どうらんば)
平成16年新作刀展で「薫山賞」を受賞。 寄せては返す、大きな波を思わせる 「濤瀾刃」と呼ばれる刃文が、兼圀氏の作品の特徴

 自らを高めつつも、立派に後継者を育てた。次男・光敏さんは、20歳の時に神奈川県で就職。働きながら、いずれは父の跡を継ごうと思い続けていた。25歳の時、「継ぎたい」と話した時は、あっさりと断られてしまったという。ガラス施工の一級技能士を持つ光敏さんに、「今の仕事の方がいいはずだ」と、父親としての判断が下ったのだ。
 しかし8年後、33歳で退職し、意を決して父のもとに入門する。一般的には20歳前後から修業を積む業界。その中では遅いスタートだったが、光敏さんは驚くほど早いスピードでその才能を開花していった。
 二代目となった光敏さんは、「尾川兼國」と名乗る。父の「圀」と子の「國」、違う漢字を用い、両者とも「かねくに」と読む。父の背中を見つめ続けてきた、光敏さんらしい名だ。
 平成9年の新作刀展では、特賞の一・二席にあたる賞を尾川親子が独占。平成21年には光敏さんも「無鑑査」認定を受け、二人は日本の刀匠界を語るに欠かせない親子として、全国に名を馳せていった。
 「父からは、『どんな事にも手を抜くな』と言われ続けてきました。手を抜けば、それが最後に作品に出てくる、と」。毎日、強い意志を持ち、真剣に刀と向き合った兼圀氏。その志が刀に映り、すばらしい作品を世に残してくれたのだ。
 「父がいなかったら、今の私はないですから。父に学べて本当に良かったです。遺志を継ぎ、とにかく今は、手を抜かず、一生懸命やっていきたい。その先に、私なりの刀鍛冶があると思っています」と光敏さん。
 多くの人を魅了する、兼圀氏の日本刀。伝統と匠の技が、こうして次代へと受け継がれていく。

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