守山市・野洲市「モリス」| 2013年5月号掲載

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鮨切り祭

古式に則って鮒鮨を神前に供える

幸津川町の下新川神社に伝わる「鮨切り祭」は、
毎年五月五日に行われる。
氏子の若者二人が古来伝承の作法に従い、
鮒鮨を神饌として供する神事で、
地域の人たちによって大切に守り受け継がれてきた。

■厳かに、そして粛々と
鮒鮨を切り分けていく
 近江の郷土の味、鮒鮨の歴史は古く、平安時代にはこの地方から宮中に献上していたという記録が残る。また、田の守り神とされる鮒を、神の恵みによる米に漬け込むことから、鮒鮨は古くより神饌として用いられていた。<br /> では鮨切り祭の起源は、となると書き記された確かな史料が残っていない。下新川神社の社伝によれば、崇神天皇の第一皇子豊城入彦命(よきいりひこのみこと)が東国平定に向かう際、湖西より丸太筏で湖に出て、白砂の地に着き、幸津川の里と命名したとあり、そのとき村人たちが鮒鮨を献上したところ、大層喜ばれたという。のちに豊城入彦命を祭神として下新川神社が創建され、例祭に鮒鮨を供えるようになったと伝わる。<br /> 鮨切り祭は、正式にはケンケト祭といい、鮨切り神事をはじめ、宵宮の太鼓練り、神輿巡行、かんこの舞い、長刀振りなど祭事すべてを指す。祭礼全体は、祭りの式法が詳細に記された『下新川神社神祭式法記』に則って行われる。<br /> 幸津川町には祭礼のために六つの組があり、このうちの二つの組がその年の祭りを担当する。「渡し番」は祭りの主役である鮨切り、見役の板直し、かんこの舞いの踊り手などを出すほか、祭事全般の運営を取り仕切る組。前年の渡し番の組が「神輿番」として神輿の巡行などを受け持つ。輪番制となっていて、大役である渡し番は六年に一度回ってくるわけだ。<br /> 祭り進行の中心となるのが渡し番に当たる組の組長宅で、「祭りの宿」と呼ばれる。役決めなどの寄合場であり、鮨切りやかんこの舞いの踊り、お囃子の稽古場でもある。六年に一度とはいえ、特に組長は大変な役目と責任を負う。<br /> 六つの組は行政的な区分けによるものではなく、組の構成員数もさまざま。少人数の組では、鮨切りの担い手を見つけるだけでも一苦労だという。神祭式法記では、元服した長男が鮨切りを行うよう決められているからだ。しかし、幸津川町も少子化の影響は大きく、近年は長男以外でも構わないとされ、また本来は女人禁制の祭りであったが、かんこの舞いの囃子方として女子も参加するようになった。<br /> 「時代の流れとともに、氏子の人たちも祭りに対する意識が変わってきました。その一方で、鮨切りの役目を果たした若者たちは、誇りに思う、と感想をいいます。鮨切り祭は地域にとって大切な祭り。確かに大変なことと思いますが、これからも守り続けていきたいですね」と自治会長の伊藤五作さんは話す。自治会は保存会を兼ねており、氏子約二百世帯が所属している。平成二十七年は下新川神社創建一三〇〇年に当たり、氏子一丸となってその記念の年に向けて祭りを盛り上げていきたいとしている。<br /> 文/長屋整徳 写真/守山市幸津川自治会提供

鮨切りの神事。鮒鮨を手で直接触れることなく、鉄製の長い箸と包丁で切り分けていく。日本料理の儀式として行われる包丁式に通じるものがある

 五月五日午後一時。行楽などで華やぐゴールデンウイークの賑やかさは遠く、ここ下新川神社の境内は静寂に包まれていた。春風に揺れる若い小枝のたてる音、新緑の葉ずれの音が耳に心地よい。拝殿の前、正面左に衣冠装束の宮司、右に紋付羽織袴の幸津川町自治会長が座している。左右には青竹の垣。氏子各組の組長ら参列者が見守るなか、鮨切りの神事が始まった。
 まず、裃姿の「板直し」二人が折敷に酒肴(小魚、小芋、大豆の水煮)をのせ、宮司と自治会長の前に差し出す。次に、腰に脇差を帯びた「鮨切り」の二人が宮司と自治会長に御神酒を注ぐ(初献)。続いて、汁赤椀で二献を勧める。三献目用の赤飯茶碗が置かれると、神輿番が入場し、神輿を上下に三度おどらせて石段に着席する。
 大型のまな板に、鮒を十尾とその端に白紙にくるんだまな箸と包丁をのせ、両手に捧げ持った板直しが再び登場し、宮司と自治会長に前に置く。鮨切りが包丁を抜き、包み紙で試し切りを行ったのち、左手に箸、右手に包丁を持って、いよいよ鮒鮨をさばていく。この間、祭祀ではよく奏でられる神楽や雅楽などはなく、だれもが無言を貫き、ただ粛々と儀式が進められてきた。
 切り分け方にも定められた所作がある。四尾、二尾、四尾と並べてある鮒の一尾を残して、右手前から順次左端の四尾の上に積み上げる。残しておいた一尾を、拝殿に腹を向けるようにまな板中央へ移し、包丁の刀口で三回ずつうろこを拭いて、尾のほうから三つに切る。続いて尾と頭を左右に分け、残した真ん中の切り身を九十度回し、腹のほうから三つに切る。こうしてバラバラになった切り身を手前が腹になるよう、もとの魚の形に揃える。
 「鮨返しの儀」というこの一連の所作を三度繰り返す。三尾を切り終えて、鮨切りの神事が終わる。一尾目は御旅所(大水口神社)での神饌として神に献上し、二尾目は宮司や自治会長、来賓のもとへ。この折、三献目として宮司と自治会長の椀にはなみなみと御神酒が注がれる。三尾目は神輿番の肴となる。
 二人の鮨切りは鮒をさばく間、動作を揃えなければならない。それが少しでもずれると、神輿番の若者たちが大声でヤジを飛ばし、冷やかす。厳かななか執り行われてきた神事も、ここに来て初めて静寂が破れる。例年決まり事のようなヤジは笑いを誘い、張りつめていた境内の空気が和らぐ。ただ鮨切りにとっては冷や汗ものらしい。神事終了後には「かんこの舞い」が三度奉納され、長刀振りが行われて、祭りは幕を閉じた。
■輪番で祭りの役を受け持ち
地域全体で継続に努める
 近江の郷土の味、鮒鮨の歴史は古く、平安時代にはこの地方から宮中に献上していたという記録が残る。また、田の守り神とされる鮒を、神の恵みによる米に漬け込むことから、鮒鮨は古くより神饌として用いられていた。<br /> では鮨切り祭の起源は、となると書き記された確かな史料が残っていない。下新川神社の社伝によれば、崇神天皇の第一皇子豊城入彦命(よきいりひこのみこと)が東国平定に向かう際、湖西より丸太筏で湖に出て、白砂の地に着き、幸津川の里と命名したとあり、そのとき村人たちが鮒鮨を献上したところ、大層喜ばれたという。のちに豊城入彦命を祭神として下新川神社が創建され、例祭に鮒鮨を供えるようになったと伝わる。<br /> 鮨切り祭は、正式にはケンケト祭といい、鮨切り神事をはじめ、宵宮の太鼓練り、神輿巡行、かんこの舞い、長刀振りなど祭事すべてを指す。祭礼全体は、祭りの式法が詳細に記された『下新川神社神祭式法記』に則って行われる。<br /> 幸津川町には祭礼のために六つの組があり、このうちの二つの組がその年の祭りを担当する。「渡し番」は祭りの主役である鮨切り、見役の板直し、かんこの舞いの踊り手などを出すほか、祭事全般の運営を取り仕切る組。前年の渡し番の組が「神輿番」として神輿の巡行などを受け持つ。輪番制となっていて、大役である渡し番は六年に一度回ってくるわけだ。<br /> 祭り進行の中心となるのが渡し番に当たる組の組長宅で、「祭りの宿」と呼ばれる。役決めなどの寄合場であり、鮨切りやかんこの舞いの踊り、お囃子の稽古場でもある。六年に一度とはいえ、特に組長は大変な役目と責任を負う。<br /> 六つの組は行政的な区分けによるものではなく、組の構成員数もさまざま。少人数の組では、鮨切りの担い手を見つけるだけでも一苦労だという。神祭式法記では、元服した長男が鮨切りを行うよう決められているからだ。しかし、幸津川町も少子化の影響は大きく、近年は長男以外でも構わないとされ、また本来は女人禁制の祭りであったが、かんこの舞いの囃子方として女子も参加するようになった。<br /> 「時代の流れとともに、氏子の人たちも祭りに対する意識が変わってきました。その一方で、鮨切りの役目を果たした若者たちは、誇りに思う、と感想をいいます。鮨切り祭は地域にとって大切な祭り。確かに大変なことと思いますが、これからも守り続けていきたいですね」と自治会長の伊藤五作さんは話す。自治会は保存会を兼ねており、氏子約二百世帯が所属している。平成二十七年は下新川神社創建一三〇〇年に当たり、氏子一丸となってその記念の年に向けて祭りを盛り上げていきたいとしている。<br /> 文/長屋整徳 写真/守山市幸津川自治会提供

「さんやれ」の囃子に合わせて踊られるかんこの舞い。雌雄のかんこによる舞いで、雄の求愛を始めは嫌がって雌が最後におれるという無言劇を踊りにしたもの

 近江の郷土の味、鮒鮨の歴史は古く、平安時代にはこの地方から宮中に献上していたという記録が残る。また、田の守り神とされる鮒を、神の恵みによる米に漬け込むことから、鮒鮨は古くより神饌として用いられていた。
 では鮨切り祭の起源は、となると書き記された確かな史料が残っていない。下新川神社の社伝によれば、崇神天皇の第一皇子豊城入彦命(よきいりひこのみこと)が東国平定に向かう際、湖西より丸太筏で湖に出て、白砂の地に着き、幸津川の里と命名したとあり、そのとき村人たちが鮒鮨を献上したところ、大層喜ばれたという。のちに豊城入彦命を祭神として下新川神社が創建され、例祭に鮒鮨を供えるようになったと伝わる。
 鮨切り祭は、正式にはケンケト祭といい、鮨切り神事をはじめ、宵宮の太鼓練り、神輿巡行、かんこの舞い、長刀振りなど祭事すべてを指す。祭礼全体は、祭りの式法が詳細に記された『下新川神社神祭式法記』に則って行われる。
 幸津川町には祭礼のために六つの組があり、このうちの二つの組がその年の祭りを担当する。「渡し番」は祭りの主役である鮨切り、見役の板直し、かんこの舞いの踊り手などを出すほか、祭事全般の運営を取り仕切る組。前年の渡し番の組が「神輿番」として神輿の巡行などを受け持つ。輪番制となっていて、大役である渡し番は六年に一度回ってくるわけだ。
 祭り進行の中心となるのが渡し番に当たる組の組長宅で、「祭りの宿」と呼ばれる。役決めなどの寄合場であり、鮨切りやかんこの舞いの踊り、お囃子の稽古場でもある。六年に一度とはいえ、特に組長は大変な役目と責任を負う。
 六つの組は行政的な区分けによるものではなく、組の構成員数もさまざま。少人数の組では、鮨切りの担い手を見つけるだけでも一苦労だという。神祭式法記では、元服した長男が鮨切りを行うよう決められているからだ。しかし、幸津川町も少子化の影響は大きく、近年は長男以外でも構わないとされ、また本来は女人禁制の祭りであったが、かんこの舞いの囃子方として女子も参加するようになった。
 「時代の流れとともに、氏子の人たちも祭りに対する意識が変わってきました。その一方で、鮨切りの役目を果たした若者たちは、誇りに思う、と感想をいいます。鮨切り祭は地域にとって大切な祭り。確かに大変なことと思いますが、これからも守り続けていきたいですね」と自治会長の伊藤五作さんは話す。自治会は保存会を兼ねており、氏子約二百世帯が所属している。平成二十七年は下新川神社創建一三〇〇年に当たり、氏子一丸となってその記念の年に向けて祭りを盛り上げていきたいとしている。
 文/長屋整徳 写真/守山市幸津川自治会提供

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