伊勢市・鳥羽市・玉城町「イセラクラブ®」| 2013年9月号掲載

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新たな二十年のはじまり

真新しい姿で再生する第六十二回神宮式年遷宮

二十年に一度、お宮をうつし、すべてを新しくして、 神様にお引っ越しいただく式年遷宮は、この秋で六十二回目。 持統天皇四(六九〇)年に内宮の第一回が行われて以来、千三百年にわたって 受け継がれてきました。真新しい伊勢神宮にお参りできるのも、もうすぐです。

■二十年に一度、
瑞々しく若返る常若思想
 直線が美しい神宮の建物は、力強さを持ち、清楚です。世界的建築家のブルーノ・タウトは、「一切は清純であり、最大の単純の中に最大の芸術がある」と称賛しています。これは日本建築の古い様式で、ほかの神社では使うことが許されない独自の「唯一神明造」。お米の蔵の形が原形ともいわれています。御正殿は切妻造りの平入りで、屋根には千木がそびえ、棟の上には鰹木が並び、棟の両端を棟持柱が支えています。この姿を間近に拝するならば、息をのむ荘厳さ。しかしその機会は二十年に一度きり、遷御前の御白石持行事の時だけです。<br /> そして御正殿のそばには、神様の御装束神宝を納める東宝殿と西宝殿があり、その三つの建物を囲むようにして、内宮には内から瑞垣、蕃垣、内玉垣、外玉垣、板垣と五つの垣に巡らされ、それぞれ御門が付けられています。幾重にも垣を巡らし、厳かな空間が存在しているのです。普段、一般の人がお参りするのは、外玉垣の御門の前からで、純白の絹の御幌ごしにその向こうの神様に手を合わせます。<br /> 社殿の建築は七世紀の奈良朝期にはじまっていますが、当時は日本に仏教が広まり、寺院建築が盛んに行われた時期。しかし神宮はその影響を受けることなく、また室町期の茶室や数寄屋造りなど「わび・さび」の建築様式にも左右されず、日本美の源流である太古の面影を今日に伝えています。

東から西へとうつる内宮のご正宮。新しい御敷地の参道沿いに籾種石がある

 伊勢神宮で最も大きな祭典、式年遷宮。式年とは定まった年のことで、二十年に一度、神様のお住まいである建物のみならず、御装束神宝の一切を新しく造り替えています。その祭典は八年の歳月をかけて行われ、いよいよ十月、神様におうつりいただく「遷御」を迎えます。
 なぜ二十年に一度なのか、その由来をはっきりと示すものはなく、諸説ある一つに神宮の建築様式が挙げられています。その建築の特徴は、掘立柱にヒノキの素木造り、萱の屋根。二十年で造り替えるのはもったいないと思われるかもしれませんが、土の中に埋まる掘立柱は腐りやすく、萱葺き屋根には苔も生え、草も伸びてきます。清々しい姿を保つには二十年が限度でしょう。
 その考えには、常に新たで若々しくあり続けるという「常若」の思想が根付いています。神宮とは、その字のごとく神の宮。神々が暮らすお宮は常に清らかで、そこで快適に過ごしていただきたいと、遷宮は行われるのではないでしょうか。いつまでも豊かで、栄えてほしいと願う気持ち。それは畳を変えたり、リフォームしたり、わたしたちの生活にも同じことがいえるでしょう。
■千三百年もの間、
変わらぬ姿であり続ける
 直線が美しい神宮の建物は、力強さを持ち、清楚です。世界的建築家のブルーノ・タウトは、「一切は清純であり、最大の単純の中に最大の芸術がある」と称賛しています。これは日本建築の古い様式で、ほかの神社では使うことが許されない独自の「唯一神明造」。お米の蔵の形が原形ともいわれています。御正殿は切妻造りの平入りで、屋根には千木がそびえ、棟の上には鰹木が並び、棟の両端を棟持柱が支えています。この姿を間近に拝するならば、息をのむ荘厳さ。しかしその機会は二十年に一度きり、遷御前の御白石持行事の時だけです。<br /> そして御正殿のそばには、神様の御装束神宝を納める東宝殿と西宝殿があり、その三つの建物を囲むようにして、内宮には内から瑞垣、蕃垣、内玉垣、外玉垣、板垣と五つの垣に巡らされ、それぞれ御門が付けられています。幾重にも垣を巡らし、厳かな空間が存在しているのです。普段、一般の人がお参りするのは、外玉垣の御門の前からで、純白の絹の御幌ごしにその向こうの神様に手を合わせます。<br /> 社殿の建築は七世紀の奈良朝期にはじまっていますが、当時は日本に仏教が広まり、寺院建築が盛んに行われた時期。しかし神宮はその影響を受けることなく、また室町期の茶室や数寄屋造りなど「わび・さび」の建築様式にも左右されず、日本美の源流である太古の面影を今日に伝えています。

清々しく輝くヒノキの御正殿。白布に包んだお白石を敷き詰める

 直線が美しい神宮の建物は、力強さを持ち、清楚です。世界的建築家のブルーノ・タウトは、「一切は清純であり、最大の単純の中に最大の芸術がある」と称賛しています。これは日本建築の古い様式で、ほかの神社では使うことが許されない独自の「唯一神明造」。お米の蔵の形が原形ともいわれています。御正殿は切妻造りの平入りで、屋根には千木がそびえ、棟の上には鰹木が並び、棟の両端を棟持柱が支えています。この姿を間近に拝するならば、息をのむ荘厳さ。しかしその機会は二十年に一度きり、遷御前の御白石持行事の時だけです。
 そして御正殿のそばには、神様の御装束神宝を納める東宝殿と西宝殿があり、その三つの建物を囲むようにして、内宮には内から瑞垣、蕃垣、内玉垣、外玉垣、板垣と五つの垣に巡らされ、それぞれ御門が付けられています。幾重にも垣を巡らし、厳かな空間が存在しているのです。普段、一般の人がお参りするのは、外玉垣の御門の前からで、純白の絹の御幌ごしにその向こうの神様に手を合わせます。
 社殿の建築は七世紀の奈良朝期にはじまっていますが、当時は日本に仏教が広まり、寺院建築が盛んに行われた時期。しかし神宮はその影響を受けることなく、また室町期の茶室や数寄屋造りなど「わび・さび」の建築様式にも左右されず、日本美の源流である太古の面影を今日に伝えています。
■歴史を重ね受け継がれる
遷宮、お伊勢さんへの思い
 内宮の御正宮に近づいた参道左手の巨岩には、遷宮に関する地元の人の物語が伝わっています。これは「籾種石」と呼ばれ、御敷地に積まれたどの岩よりも大きく、その形は籾種のよう。江戸時代中期、全国的に起きた天明大飢饉の頃、楠部の人が神宮の御造営に五十鈴川の河原からこの大きな岩を運び込んだとか。食料が乏しくなっていたにもかかわらず、人々は籾種まで食べ尽くしながらも奉納したことから籾種石といわれるようになったそうです。<br /> それより以前の戦国の世では式年遷宮が百二十三年もの間、中断される事態になりました。この窮地を救ったのは、宇治浦田にあった慶光院の尼僧たち。彼女たちは相次ぐ戦乱のさなかで荒廃の進む社殿を憂い、諸国を遍歴し、浄財を集め、滞った遷宮を実現させます。<br /> 急激に日本の近代化が進んだ明治時代には、コンクリート論も出され、土台に礎石を置き固めれば二百年は保つだろうとの思惑でしたが、明治天皇はこれを却下し、祖先の建国の姿を継承すべしと、二十年に一度の式年遷宮の大切さを論されたといいます。<br /> ヒノキの用材は、カンナを掛けリサイクル。内宮と外宮の棟持柱は、遷宮後に宇治橋の鳥居として使われ、二十年間、参拝者を迎えます。二十年経つと、桑名の七里の渡しと関の追分の鳥居となり、地域の人を見守るシンボルとして役割を担っています。棟持柱以外の建物も、全国の神社の建て替えなどに使われ、「お伊勢さん」のありがたい御用材として引き継がれています。<br /> 建て替えられたばかりのヒノキ芳しいお宮への参拝も、秒読みです。そしてまた新しい二十年がはじまります。<br /> 文・写真/中村元美

宇治橋の大鳥居には御正殿の棟持柱がリサイクルされる

 内宮の御正宮に近づいた参道左手の巨岩には、遷宮に関する地元の人の物語が伝わっています。これは「籾種石」と呼ばれ、御敷地に積まれたどの岩よりも大きく、その形は籾種のよう。江戸時代中期、全国的に起きた天明大飢饉の頃、楠部の人が神宮の御造営に五十鈴川の河原からこの大きな岩を運び込んだとか。食料が乏しくなっていたにもかかわらず、人々は籾種まで食べ尽くしながらも奉納したことから籾種石といわれるようになったそうです。
 それより以前の戦国の世では式年遷宮が百二十三年もの間、中断される事態になりました。この窮地を救ったのは、宇治浦田にあった慶光院の尼僧たち。彼女たちは相次ぐ戦乱のさなかで荒廃の進む社殿を憂い、諸国を遍歴し、浄財を集め、滞った遷宮を実現させます。
 急激に日本の近代化が進んだ明治時代には、コンクリート論も出され、土台に礎石を置き固めれば二百年は保つだろうとの思惑でしたが、明治天皇はこれを却下し、祖先の建国の姿を継承すべしと、二十年に一度の式年遷宮の大切さを論されたといいます。
 ヒノキの用材は、カンナを掛けリサイクル。内宮と外宮の棟持柱は、遷宮後に宇治橋の鳥居として使われ、二十年間、参拝者を迎えます。二十年経つと、桑名の七里の渡しと関の追分の鳥居となり、地域の人を見守るシンボルとして役割を担っています。棟持柱以外の建物も、全国の神社の建て替えなどに使われ、「お伊勢さん」のありがたい御用材として引き継がれています。
 建て替えられたばかりのヒノキ芳しいお宮への参拝も、秒読みです。そしてまた新しい二十年がはじまります。
 文・写真/中村元美

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