名古屋市緑区「緑区フリモ」| 2012年10月号掲載

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松尾芭蕉も歩いた東海道五十三次の宿場

俳聖が愛した鳴海宿

東海道五十三次の宿場町として栄えた鳴海。いまその姿はほとんど残っていないが、歴史に思いを馳せながら歩いてみると、かつての様子が現代の町並みに重なるようで、ロマンを感じた。

■五街道随一の賑わいを見せた
東海道「江戸ー京」の道のり
 鳴海は俳聖芭蕉との縁が深い。芭蕉が最初に訪れたのは1685年。3月中旬に大津を立ち、熱田を経て4月4日鳴海に到着。当時すでに鳴海で形成され、鳴海六俳仙と呼ばれた6人とも顔を合わせ、俳席を重ねた。鳴海潟を眺めながら二句を残し、4月10日鳴海を立つと、木曽路を経て江戸に向かった。<br /><br />船足も休む時あり濱の桃<br /><br />杜若われに発句の<br />おもひあり<br /><br /> 二回目の来訪は1687年。このとき有名な一句が生まれる。<br /> <br />星崎の闇を見よとや<br />啼く千鳥<br /><br /> 伊良湖崎、伊勢、伊賀上野などへの旅をつづった「笈の小文」に残されたものだ。<br /> 最後は1694年5月に立ち寄るが、その年の10月に大阪の客舎(旅行中の宿泊施設)に没した。六俳仙の一人、鳴海俳壇の盟主であった下里知足は、千代倉の屋号で知られる地元の名家。千代倉家代々の菩提寺である誓願寺には、芭蕉の供養碑が置かれている(当初は如意寺に建立)。これは、全国にある芭蕉供養碑のなかでもっとも古いものとされている。<br /> また、三王山には、芭蕉が唯一存命中に建立した「千鳥塚」がある。千鳥の文字は芭蕉直筆で基礎の小石を自ら運んだという説も残っている。千句塚公園は、小高い場所にあり広く鳴海潟の跡を見ることができる。古くは干潟沿いであったことから、公園整備の調査では2000年以上前、縄文時代の貝塚、土器が見つかった場所。芭蕉もここに立ち、鳴海の景色を眺めたのだろう。<br />

丹下町常夜燈
丹下町常夜燈(1792完成)平部町常夜燈(1806完成)ともに旅行の安全と宿場町の平和を祈願して、問屋場の馬方たちが寄進した浄財で建てられた

 1601年、江戸幕府の政策によって整備が始められた東海道、日光街道、奥州街道、中山道、そして甲州街道。五街道のうちもっとも栄えたといわれる東海道は1624年に完成し、京・三条大橋までの約495㎞を結んだ。宿駅は53カ所、いわゆる東海道五十三次である。参勤交代のため江戸に向かった300の大名のうち160家以上が利用したというから、その賑わいようは目にうかぶ。当時、12~13日をかけて人々は江戸から京をめざした。
 平部北交差点にある「平部町常夜燈」(東の常夜燈)は1806年に設置された。ここから鳴海の宿場町が始まる。まっすぐに伸びる街道を眺めると、現代風にはなってはいるが両端に敷き詰めるように家々が建ち、宿で最初にまちを形成したといわれる平部の繁栄を見ることができる。
 鳴海宿は江戸まで87里(342㎞)、京まで38里(153㎞)のところにあった。平部町、中島町、相原町、中心部である本町、値古屋町、作町、山花町、北浦町、丹下町などのまちから成り、大名や幕府の役人、京の公家など身分の高い人が泊まる本陣、脇本陣、馬や人足を管理して公用の運送業務を行う問屋場、一般人が泊まる旅籠が設けられた。寛永年間(1624~43年)の戸数、人口は533戸、3195人、享和年間(1801~03年)には926戸、3521人と増加していった。最盛期には旅籠が68軒もあったという。水路の便もよかったため、作町の扇川岸には船着場があり、そこから知多や伊勢まで船が出て、人や物資を運んだ。伊勢湾台風で被害を受けるまで、利用されていた。
 1811年、大火「扇屋の火事」に見舞われ、作町の東半分、根古屋町の全域、そして本町の南部全域を焼失。戸数にして111戸、170棟が失われた。
■『星崎の闇を見よとや啼く千鳥』
芭蕉が眺めた鳴海の景色
 鳴海は俳聖芭蕉との縁が深い。芭蕉が最初に訪れたのは1685年。3月中旬に大津を立ち、熱田を経て4月4日鳴海に到着。当時すでに鳴海で形成され、鳴海六俳仙と呼ばれた6人とも顔を合わせ、俳席を重ねた。鳴海潟を眺めながら二句を残し、4月10日鳴海を立つと、木曽路を経て江戸に向かった。<br /><br />船足も休む時あり濱の桃<br /><br />杜若われに発句の<br />おもひあり<br /><br /> 二回目の来訪は1687年。このとき有名な一句が生まれる。<br /> <br />星崎の闇を見よとや<br />啼く千鳥<br /><br /> 伊良湖崎、伊勢、伊賀上野などへの旅をつづった「笈の小文」に残されたものだ。<br /> 最後は1694年5月に立ち寄るが、その年の10月に大阪の客舎(旅行中の宿泊施設)に没した。六俳仙の一人、鳴海俳壇の盟主であった下里知足は、千代倉の屋号で知られる地元の名家。千代倉家代々の菩提寺である誓願寺には、芭蕉の供養碑が置かれている(当初は如意寺に建立)。これは、全国にある芭蕉供養碑のなかでもっとも古いものとされている。<br /> また、三王山には、芭蕉が唯一存命中に建立した「千鳥塚」がある。千鳥の文字は芭蕉直筆で基礎の小石を自ら運んだという説も残っている。千句塚公園は、小高い場所にあり広く鳴海潟の跡を見ることができる。古くは干潟沿いであったことから、公園整備の調査では2000年以上前、縄文時代の貝塚、土器が見つかった場所。芭蕉もここに立ち、鳴海の景色を眺めたのだろう。<br />

千里塚
日本最古の翁塚で松尾芭蕉存命中に建てられた唯一のもの。1687年に地元の六俳仙の一人寺島安信宅で歌仙「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」の巻が終わりになったのを記念して建てられた。文字は松尾芭蕉直筆である

 鳴海は俳聖芭蕉との縁が深い。芭蕉が最初に訪れたのは1685年。3月中旬に大津を立ち、熱田を経て4月4日鳴海に到着。当時すでに鳴海で形成され、鳴海六俳仙と呼ばれた6人とも顔を合わせ、俳席を重ねた。鳴海潟を眺めながら二句を残し、4月10日鳴海を立つと、木曽路を経て江戸に向かった。

船足も休む時あり濱の桃

杜若われに発句の
おもひあり

 二回目の来訪は1687年。このとき有名な一句が生まれる。
 
星崎の闇を見よとや
啼く千鳥

 伊良湖崎、伊勢、伊賀上野などへの旅をつづった「笈の小文」に残されたものだ。
 最後は1694年5月に立ち寄るが、その年の10月に大阪の客舎(旅行中の宿泊施設)に没した。六俳仙の一人、鳴海俳壇の盟主であった下里知足は、千代倉の屋号で知られる地元の名家。千代倉家代々の菩提寺である誓願寺には、芭蕉の供養碑が置かれている(当初は如意寺に建立)。これは、全国にある芭蕉供養碑のなかでもっとも古いものとされている。
 また、三王山には、芭蕉が唯一存命中に建立した「千鳥塚」がある。千鳥の文字は芭蕉直筆で基礎の小石を自ら運んだという説も残っている。千句塚公園は、小高い場所にあり広く鳴海潟の跡を見ることができる。古くは干潟沿いであったことから、公園整備の調査では2000年以上前、縄文時代の貝塚、土器が見つかった場所。芭蕉もここに立ち、鳴海の景色を眺めたのだろう。

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