名古屋市西区「西区フリモ」| 2010年12月号掲載

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「ノリタケの森」に見る日本洋食器百年の歴史

ノリタケカンパニーリミテド

総面積約48,000㎡もの敷地に、ミュージアムや、クラフトセンター、ショップなど、洋食器メーカー・ノリタケの全てを集約した「ノリタケの森」。創立百周年の記念事業として創設され、ノリタケカンパニーと日本窯業近代化の歴史を感じることができる。

■鎖国時代が終わり世界への門戸を開いた日本
海外貿易による国の繁栄を夢みた森村兄弟
 常に時代の先頭に立ち、消費者のニーズに応えてきたノリタケ。ノリタケの森は創立100周年記念事業の一環として平成13年にオープンした。広大な敷地内には、明治37年に建てられた赤レンガ造りの工場が残る他、巨大な6本煙突のモニュメントや工場見学ができるクラフトセンター、ノリタケ食器を販売しているショップなどを配し、全体を豊かな緑が包んでいる。「地域に貢献したい」という社の思いが、都会の中にありながらほっと一息つく空間を生み出した。<br /> 平成15年には来場者が100万人を突破し、家族連れや学生の姿が多く見られる。「創業者の思いを大切に、多くの方が癒しを感じられる場所にしたい」と中井さん。これからの100年、ノリタケは豊かな暮らしの創造に目を向け、高い技術力によって更なる発展を続けることだろう。

ニューヨークブロードウェイのMORIMURA BROTHERS
ショーウィンドウに扇子が置かれているのが確認できる

 1世紀以上というノリタケの長い歴史を紐解く鍵が、ノリタケの森クラフトセンター3階ミュージアム入口に展示された一枚の古い写真にある。明治17年から23年に投影された「ブロードウェイ541番地MORIMURA BROTHERS」の看板を掲げたこの店舗こそ、ノリタケの出発点。「ノリタケの前身である森村組は、創業者森村市左衛門と弟の豊によって、アメリカで飛躍の第一歩を踏み出しました」とノリタケの森の中井宏美さん。
 幕末の動乱期、鎖国を解いた日本から純度の高い金が海外へと大量に流出する様子に憂えた森村市左衛門は、洋学者の福沢諭吉に相談。「金を取り戻すためには、海外貿易以外方法はない」と教えられたことから海外貿易を志す。そして明治2年、銀座に森村組を創業。同年、豊をアメリカ・ニューヨークに送り雑貨専門店「モリムラブラザーズ」を開業した。森村組では、左座衛門の義弟である大倉孫兵衛が商品の仕入れを手伝った。孫兵衛は日本橋で絵草紙屋を営んだこともあり、陶磁器製造を始めるようになるとその審美眼が生かされる。
 モリムラブラザーズは当初、骨董品や日本人形、扇子などを販売していたが、御神酒徳利がアメリカで花瓶としてヒットしたことを機に、その将来性に確信を得た市左衛門は陶磁器を主力製品に決める。瀬戸の窯元から生地を仕入れ、名古屋、東京、京都に置いた専属の画付け工房で絵付けをして次々に出荷した。明治15年頃には、小売業から卸売業に業態を変換、さらなる販路拡大を目指す。ヨーロッパからの輸入が主だったアメリカにとって、花鳥画などの異国情緒あふれるデザインは斬新で人気を博した。明治18年頃からは、ニューヨークにいる日本人デザイナーが市場の動向を反映させたデザイン画を描き、その見本帳を見せて受注するインポートオーダーを開始。日本に送られたデザイン画に沿って忠実に製品がつくられ、客のもとに届けられた。現地の流行を取り入れたモリムラブラザーズは売り上げを伸ばしていく。
 ファンシーウェアと呼ばれる飾り皿や花瓶など陶磁器の輸出を続けていた明治27年、転機が訪れる。アメリカの大型専門店「ビギンズ&サイダー」の店主から、「今後も陶磁器の販売を続けるのであれば、需要の高いディナーウェアを扱った方がよい」とアドバイスを受けたことで、ディナーセット製造への挑戦が始まる。しかし完成までの壁はとてつもなく高かった。ファンシーウェアに使われていた生地の色はディナー皿には不的確とされ、ディナー皿に合う生地の研究から始められた。加えて、ナイフ・フォークが使いやすいよう皿の表面が平らであること、ダース販売に対応できるよう12枚すっきりと重ねられる形の正確性などが求められた。研究を重ね、20年の歳月を経て日本産として初のディナー皿を完成。翌大正3年には「SEDAN」と名付けられたディナーセットの販売を開始する。その間、明治37年、日本陶器合名会社を現在の西区則武に創立。社長には係兵衛の息子、和親が就任した。名古屋港の整備が完全でなかった当時、輸出には神戸港・横浜港を利用していた。そこで、2港までの輸送に便利な名古屋駅に近く、水質も良い則武の地が選ばれた。そしてこの地からノリタケチャイナの名が広がっていった。
 昭和7年には、ボーンチャイナの研究を開始し、製造に成功した。太平洋戦争が始まると、戦局の悪化にともない食器の製造を中止するが、ボーンチャイナは政府により技術保存の指定を受け、製造が継続された。第2次世界大戦終結後、すぐに陶磁器製造や画付けを再開。しかし、資材や燃料の不足に加え熟練の職人、設備を大量に失った日本陶器は戦前のような高品質の生産ができなくなってしまう。駐留アメリカ軍の要請により、アメリカで人気を集めたノリタケチャイナの生産が求められるが、物資・技術不足によって品質は劣化。ノリタケのブラント名を守るため一時的に「ローズチャイナ」の名が使用された。
 日本の復興と時代の流れにのり、日本陶器も再建を実現。昭和23年にはノリタケチャイナの商標が復活した。名古屋港からの陶磁器の輸出は、戦時中の4年間をのぞく55年間、トン数において第一位を締め、陶磁器産業は戦後復興の一翼を担ったといえる。日本は高度経済成長の時代をむかえ、ちゃぶ台からテーブルへと生活様式も変化。一般家庭でも洋食メニューが普及し、国内の洋食器需要が高まった。その後、オーブンや電子レンジに対応できる食器を製造。昭和50年代には日本で高級洋食器をしてボーンチャイナ製食器が普及。60年代以降、外食産業が人気となり業務用食器の生産が急がれた。
■良品、輸出、共栄を社是に掲げ
地域社会とともに歩んだ百年に感謝
 常に時代の先頭に立ち、消費者のニーズに応えてきたノリタケ。ノリタケの森は創立100周年記念事業の一環として平成13年にオープンした。広大な敷地内には、明治37年に建てられた赤レンガ造りの工場が残る他、巨大な6本煙突のモニュメントや工場見学ができるクラフトセンター、ノリタケ食器を販売しているショップなどを配し、全体を豊かな緑が包んでいる。「地域に貢献したい」という社の思いが、都会の中にありながらほっと一息つく空間を生み出した。<br /> 平成15年には来場者が100万人を突破し、家族連れや学生の姿が多く見られる。「創業者の思いを大切に、多くの方が癒しを感じられる場所にしたい」と中井さん。これからの100年、ノリタケは豊かな暮らしの創造に目を向け、高い技術力によって更なる発展を続けることだろう。

オールドノリタケ花手付花瓶

 常に時代の先頭に立ち、消費者のニーズに応えてきたノリタケ。ノリタケの森は創立100周年記念事業の一環として平成13年にオープンした。広大な敷地内には、明治37年に建てられた赤レンガ造りの工場が残る他、巨大な6本煙突のモニュメントや工場見学ができるクラフトセンター、ノリタケ食器を販売しているショップなどを配し、全体を豊かな緑が包んでいる。「地域に貢献したい」という社の思いが、都会の中にありながらほっと一息つく空間を生み出した。
 平成15年には来場者が100万人を突破し、家族連れや学生の姿が多く見られる。「創業者の思いを大切に、多くの方が癒しを感じられる場所にしたい」と中井さん。これからの100年、ノリタケは豊かな暮らしの創造に目を向け、高い技術力によって更なる発展を続けることだろう。
■クリスマスを彩る
とっておきのノリタケウェア
 シンプルな白地のプレートに、ゴールドやシルバーのアクセントを施した商品が最近のトレンド。レストランなどで使用される食器を使ってコーディネートを楽しむ方も増えている。「ノリタケの森で開催した盛りつけコンテストでは、購入してきたお惣菜もノリタケの食器に盛りつけることで一気に料理がバージョンアップすることを体験していただきました」と稗苗智恵子さん。ちょっとした工夫で、より華やかなクリスマスを過ごせそうだ。

グラスツリー

 シンプルな白地のプレートに、ゴールドやシルバーのアクセントを施した商品が最近のトレンド。レストランなどで使用される食器を使ってコーディネートを楽しむ方も増えている。「ノリタケの森で開催した盛りつけコンテストでは、購入してきたお惣菜もノリタケの食器に盛りつけることで一気に料理がバージョンアップすることを体験していただきました」と稗苗智恵子さん。ちょっとした工夫で、より華やかなクリスマスを過ごせそうだ。

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