栗東市「リクォラ」| 2017年1月号掲載

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湖南 山岳信仰の聖地

金勝山 金勝寺

奈良時代、
平城京の鎮護を目的に開基された金勝山金勝寺。
盛期は36もの僧坊を抱え、八宗の僧が集う一大修行地であった。
1300年間で3度の火災に見舞われながらも受難を乗り越え、
いまも静かに金勝山の中腹にたたずむ。

■興福寺の仏教道場として 大菩提寺の名で始まる
 参拝順路に沿って進むと、山型配石の階段の先に仁王門が見える。参道を囲むように杉の大木が隆々と立ち、木漏れ日が差し込む様は往時の威厳を感じさせる。山門では鎌倉期の作といわれる朱塗りの仁王像が睨みを利かせていた。<br /> 境内は山の斜面にあり、本堂、二月堂、御香水館、虚空蔵堂が残る。釈迦如来坐像を本尊とし、二月堂には高さ約3・6メートルの軍茶利明王立像を安置。虚空蔵堂には、虚空蔵菩薩半跏像、毘沙門天立像、地蔵菩薩像を安置する。いずれも平安期の作であり、国の重要文化財に指定されている。<br /> 盛期は36もの僧坊があったが、3度の火災でほとんどが失われた。「天文18(1549)年の火災が一番大きかったようです。現存する御仏像は、その時に運び出されたのでしょう」と勝山住職。同年、後奈良天皇の綸旨によって再建され、慶長14(1609)年に再び焼失した。金勝山全域を寺領とし、荒張周辺から年貢を集めてもよい旨の朱印状を徳川家康から得るが、再建は難しかった。寄棟造の本堂は当時の仮堂であり、修復を繰り返して現在に至る。山奥だったためか、幸いにも明治政府による廃仏毀釈の影響は受けていない。<br /> 代々住職を務める勝山家は、「圓」の字と共に、江戸後期から寺を守る。比叡山の僧であった初代・治圓が、明治政府と交渉の末に寺領の返還を受けた。以来、圓明、圓誠と続き、圓昭さんは4代目にあたる。長らく無住寺だったが、先代が山上本坊を整備し、圓昭さんが常在するようになった。きっかけは、平成17年と21年に起きた悲しい事件だ。1度目は本堂から八幡大菩薩像を含めた5体の仏像が盗まれ、2度目は馬頭観音像が盗まれた。仏像はいまも戻っていない。<br /> 寺は修行地であった経緯から、ほとんど檀家をもたない。圓昭さんは教職員と住職を兼務し、二足のわらじを履いて寺を守ってきた。退職すると7年をかけ、境内や山林を少しずつ整備。鬱蒼と茂っていた草木を取り払い、参道を補修し、雨漏りしていた仁王門の屋根も直した。「堂をできるだけ開き、来て頂いた方々に仏様のお顔を見てもらうよう、先代からいいつかりました。いろんな方が協力してくださるおかげで、なんとかやっていけます」と圓昭さんはほほ笑む。現在は息子の圓海さんも比叡山での修行を終え、僧籍を取得した。<br /> 取材が終わる頃、幼児を連れた母親が参拝に訪れた。「石段を登っていだだくと仁王門がありまして……」と、いつもの説明が始まる。参拝者に語りかける優しげな横顔が心に残った。

天文18(1549)年の火災で境内は焼失。杉の大木は樹齢400年前後と考えられる。金勝寺は、随筆家・白洲正子の『かくれ里』を読んで訪れる人が多いという


 こんぜの里りっとうの向かいから、山頂へ続く林道を上る。両端に積もる落ち葉が次第に厚くなり、道幅が狭まっていく。10分ほど車を走らせると、標高約560メートルにある山上本坊にたどり着いた。天台宗の古刹、金勝山金勝寺だ。
 「話の前に、まずはぐるりとご覧になられてはいかがでしょう」と、住職の勝山圓昭さん。受付で穏やかなほほ笑みを浮かべている。パンフレットを手渡すと「石段を上っていだだくと仁王門がありまして……」と、細かに説明してくれた。
 寺の創建は天平5(733)年。聖武天皇の勅願を受けた良弁が、平城京の北東鬼門を守る祈願寺として開基した。聖武天皇は長屋王から政権を取り戻すと、仏教を政治の中心とする。後に国分寺建立の詔を発し、良弁に東大寺盧舎那仏像の建立を命じるが、金勝寺はその先駆けだったのだろう。良弁は百済の帰化人の子孫であり、青銅を業とする金勝族を率い、これらを建立したといわれる。金勝山大菩提寺の名で始まり、8世紀中頃までに近江の二十五別院を総括。興福寺の仏教道場の役割を担った。
 弘仁6(815)年、嵯峨天皇の勅願を受けた願安が伽藍を建立して整備すると、八宗の兼学道場として国家平安を祈願した。八宗とは、奈良時代に主流であった倶舎・成実・律・法相・三論・華厳の南都六宗に、新たに開創された天台・真言の平安二宗をあわせた総称だ。宗教の総合大学といえばわかりやすい。同年、願安は狛坂寺を建立する。現在は寺跡が残るのみだが、金勝寺から山道を1時間ほど歩いた谷底に、狛坂麿崖仏が現存する。高さ約6メートル、幅約3・6メートルの壁面に、阿弥陀如来坐像を中尊として15体の仏像が彫られている。製作年代は不明だが、韓国にも似た仏像があることから、7世紀の白村江の戦いに敗れた百済遺民が日本に渡り、彫ったとする説がある。
 天長10(833)年、大菩提寺は仁明天皇によって鎮護国家を祈る僧侶の育成道場に定められ、金勝山金勝寺と名を変えた。
■受難を乗り越えて現代へ 山中で静かに歴史を紡ぐ
 参拝順路に沿って進むと、山型配石の階段の先に仁王門が見える。参道を囲むように杉の大木が隆々と立ち、木漏れ日が差し込む様は往時の威厳を感じさせる。山門では鎌倉期の作といわれる朱塗りの仁王像が睨みを利かせていた。<br /> 境内は山の斜面にあり、本堂、二月堂、御香水館、虚空蔵堂が残る。釈迦如来坐像を本尊とし、二月堂には高さ約3・6メートルの軍茶利明王立像を安置。虚空蔵堂には、虚空蔵菩薩半跏像、毘沙門天立像、地蔵菩薩像を安置する。いずれも平安期の作であり、国の重要文化財に指定されている。<br /> 盛期は36もの僧坊があったが、3度の火災でほとんどが失われた。「天文18(1549)年の火災が一番大きかったようです。現存する御仏像は、その時に運び出されたのでしょう」と勝山住職。同年、後奈良天皇の綸旨によって再建され、慶長14(1609)年に再び焼失した。金勝山全域を寺領とし、荒張周辺から年貢を集めてもよい旨の朱印状を徳川家康から得るが、再建は難しかった。寄棟造の本堂は当時の仮堂であり、修復を繰り返して現在に至る。山奥だったためか、幸いにも明治政府による廃仏毀釈の影響は受けていない。<br /> 代々住職を務める勝山家は、「圓」の字と共に、江戸後期から寺を守る。比叡山の僧であった初代・治圓が、明治政府と交渉の末に寺領の返還を受けた。以来、圓明、圓誠と続き、圓昭さんは4代目にあたる。長らく無住寺だったが、先代が山上本坊を整備し、圓昭さんが常在するようになった。きっかけは、平成17年と21年に起きた悲しい事件だ。1度目は本堂から八幡大菩薩像を含めた5体の仏像が盗まれ、2度目は馬頭観音像が盗まれた。仏像はいまも戻っていない。<br /> 寺は修行地であった経緯から、ほとんど檀家をもたない。圓昭さんは教職員と住職を兼務し、二足のわらじを履いて寺を守ってきた。退職すると7年をかけ、境内や山林を少しずつ整備。鬱蒼と茂っていた草木を取り払い、参道を補修し、雨漏りしていた仁王門の屋根も直した。「堂をできるだけ開き、来て頂いた方々に仏様のお顔を見てもらうよう、先代からいいつかりました。いろんな方が協力してくださるおかげで、なんとかやっていけます」と圓昭さんはほほ笑む。現在は息子の圓海さんも比叡山での修行を終え、僧籍を取得した。<br /> 取材が終わる頃、幼児を連れた母親が参拝に訪れた。「石段を登っていだだくと仁王門がありまして……」と、いつもの説明が始まる。参拝者に語りかける優しげな横顔が心に残った。

平安後期の彫刻様式である定朝様の本尊・釈迦如来坐像(高さ2.2メートル)。螺髪が細かく、目鼻立ちが繊細で、衣文が浅く並行に並ぶ

 参拝順路に沿って進むと、山型配石の階段の先に仁王門が見える。参道を囲むように杉の大木が隆々と立ち、木漏れ日が差し込む様は往時の威厳を感じさせる。山門では鎌倉期の作といわれる朱塗りの仁王像が睨みを利かせていた。
 境内は山の斜面にあり、本堂、二月堂、御香水館、虚空蔵堂が残る。釈迦如来坐像を本尊とし、二月堂には高さ約3・6メートルの軍茶利明王立像を安置。虚空蔵堂には、虚空蔵菩薩半跏像、毘沙門天立像、地蔵菩薩像を安置する。いずれも平安期の作であり、国の重要文化財に指定されている。
 盛期は36もの僧坊があったが、3度の火災でほとんどが失われた。「天文18(1549)年の火災が一番大きかったようです。現存する御仏像は、その時に運び出されたのでしょう」と勝山住職。同年、後奈良天皇の綸旨によって再建され、慶長14(1609)年に再び焼失した。金勝山全域を寺領とし、荒張周辺から年貢を集めてもよい旨の朱印状を徳川家康から得るが、再建は難しかった。寄棟造の本堂は当時の仮堂であり、修復を繰り返して現在に至る。山奥だったためか、幸いにも明治政府による廃仏毀釈の影響は受けていない。
 代々住職を務める勝山家は、「圓」の字と共に、江戸後期から寺を守る。比叡山の僧であった初代・治圓が、明治政府と交渉の末に寺領の返還を受けた。以来、圓明、圓誠と続き、圓昭さんは4代目にあたる。長らく無住寺だったが、先代が山上本坊を整備し、圓昭さんが常在するようになった。きっかけは、平成17年と21年に起きた悲しい事件だ。1度目は本堂から八幡大菩薩像を含めた5体の仏像が盗まれ、2度目は馬頭観音像が盗まれた。仏像はいまも戻っていない。
 寺は修行地であった経緯から、ほとんど檀家をもたない。圓昭さんは教職員と住職を兼務し、二足のわらじを履いて寺を守ってきた。退職すると7年をかけ、境内や山林を少しずつ整備。鬱蒼と茂っていた草木を取り払い、参道を補修し、雨漏りしていた仁王門の屋根も直した。「堂をできるだけ開き、来て頂いた方々に仏様のお顔を見てもらうよう、先代からいいつかりました。いろんな方が協力してくださるおかげで、なんとかやっていけます」と圓昭さんはほほ笑む。現在は息子の圓海さんも比叡山での修行を終え、僧籍を取得した。
 取材が終わる頃、幼児を連れた母親が参拝に訪れた。「石段を登っていだだくと仁王門がありまして……」と、いつもの説明が始まる。参拝者に語りかける優しげな横顔が心に残った。

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